人から人に「続く」ということ

皆さんは何か続けていることってありますか?自分は何かを作り出す、クリエイトすることを小さい時から続けています。僕が何かを作ったり生み出すのが好きになった始まりは3歳のころに始めた習字でした。保育園の後月曜日に17時30分から20時まで、小学校に上がるまでは一生懸命先生の書いた字を上からなぞっていました。家ではお母さんと弟とお絵かきを何度も書ける磁石の板のようなものに夢中でした。

小学校に上がっても、習字は続きます。小学校に上がった頃から両親が共働きを始めたので、僕は学校に端にあった学童保育に小学5年生になるころまで数時間を過ごしていました。その時間は泥団子を永遠に作っていました。湿っている粘度のある土や、最後の仕上げに使うサラサラな砂、それを濾す為のザル。言うならば宛ら小学生の泥団子職人でした。

泥団子職人は、習字の大会も出たりしていました。地域の大きな公会堂で大人数で並んで一斉に1枚と予備の1枚を仕上げる。それを提出する大会でした。その頃はその大会で賞を貰って、賞状とトロフィーを見せてお婆ちゃんにご褒美として1,000円を貰うのが生きがいでした!もしかして、何かを生み出してそれを評価してもらって対価としてお金を貰うことをお婆ちゃんは教えてくれていたのかな。教えてくれるつもりが無かったとしても、その経験があったから今の自分があるのかもしれません。

お婆ちゃんは、僕が小さい時から、
そして今もペースメーカーで動いてる。(心臓を補助する機械)
子宮も、 他の内臓もいくつか摘出している。
でも、それを感じさせないほど元気な婆ちゃん。
僕が赤ちゃんの時、
「アンタ抱っこしとるときに転けたんやけど、アンタを守って自分の足から骨が見えるくらい怪我をしたんよ」って思い出すたび言ってくる婆ちゃん。
小学校の時は両親が働いていたから夏休みとか冬休みずっと一緒にいた。一緒にテレビ見ながら宿題見てくれて、あまーいお菓子をいっぱいくれた婆ちゃん。 
中学校の時は、僕が部活動で休みの日潰れたり、反抗期と思春期で家から出なくて、会いに行かなくて年に10回も会ってなかった婆ちゃん。 
高校の時、3年生の春。東京に行くって1人で決めた時に泣きながら「都会なんかに行かれん!あんた、知り合いも親族も誰もおらん土地に行くなんて危ないやろ!」って怒ってくれた婆ちゃん。あの時はごめん。 

東京に行っても2日に一回は電話かかってきて、「どんな?元気にしとる?こっちはね~」って元気いっぱいに電話してくれた。でもね?専門学校2年生の夏の終わり。僕を気遣ってひいばあちゃんが亡くなった時、誰からも情報が行かないようにして、僕が帰省した時に「あんたはすぐ動いて来てしまいそうやったけん、黙ってたけど実はね」って教えてくれた時は凄く悔しかった。あんなに電話してたのに気付けなかった。その時も普通に話してくれてたのに「はいはい、元気よー元気」って素っ気なく電話切ってた自分に後悔した。そしてそれが初めての自分が生まれてから親族の死で、「もし自分が東京に居続けたらこんな風に誰かが亡くなってしまったり、危険な状態になった時にすぐに会いにいけないんだ」って初めて物理的な距離の恐怖を感じたよ。

だから、それまでは都内の企業で就職活動してたけど、成人式で帰った正月休みにUターン就職をすることを突然決めて、1~2週間の休みの間に一気に面接して地元の企業の内定を貰った。その後も大変で、地元で通勤するには免許が必要だから、自動車教習所に必死に通って一回でも仮免や本免を落ちたら、東京から愛媛に戻る飛行機に間に合わないスケジュールで免許を取った。東京の友達にもまともに挨拶出来ずに帰ってしまった。

愛媛で就職して1年ほど経ってから、トイプードルの宙斗(そらと)を家族に迎えて、毎日仕事前に婆ちゃん家に預けて仕事終わりに迎えに行く生活になった。今までの人生で一番お婆ちゃんとお爺ちゃんと顔を合わせているよね。ちょっとは小さい時の恩返しになってるかな?

愛媛に戻ってからは、東京にも大事な人たちがいっぱいいるから東京に帰りたい自分との戦いでした。「まだ相手もいないけれど家庭を持った時を考えたら。もしひいばあちゃんの時みたいに誰かに何かあったら」って自分に言い聞かせて、もし一回でも戻ってしまったらまた心が揺れそうだから。だから東京に遊びにすら行けていなかった。人も場所も大好きだから、だからこそ。

でも、今は結婚して、ちゃんと戻る場所が出来た。だから少し進む勇気が出た。妻にも「新婚旅行、東京とかどうかな?浅草の揚げ饅頭が俺好きなんよね!」って照れながら伝えられた。そろそろ大丈夫だよねって。

僕がものづくりが好きでハンドメイドをしているのも、お婆ちゃんからお母さんに続いて、僕に。書いているうちにお婆ちゃんメインの記事になってしまっていましたが、お婆ちゃんは何十年もタオルのミシン縫いをしていました。いろんな手芸教室にも昔から通ってたみたい。お母さんもその影響で物作りが好きだったよね。でも飽き性も僕と一緒で、ある程度極めたら次に次にってどんどん新しい物にチャレンジ今でもしてます笑。覚えているだけでも(毛糸編み、プラ板、手作り石鹸、レジン、レザー、摘み細工、パン作り)って多分もっとチャレンジしてるはず…こうみると母強しですね。

僕も、愛媛に戻って物作りを初めてレジンから始まってアロマサシェや陶器ブローチを作って販売してきました。今回もそろそろ何かを作りたい欲が出てきているので着々と準備中です。

そんなわけで、今回は「続く」をテーマに書きました。皆さん誰かに少なからず影響を受けて今の人生があると思います。僕は両親より、お婆ちゃんの考え方や生き様に影響を受けて、今の自分が形成されているなぁ。と思うお婆ちゃんっ子です!自信を持って言えます笑。何かを作る喜びや、人との繋がりを大切にする生き方を僕も誰かに続けて行けたらな、と考えています。

ブログに残すって、もし自分が死んでしまってもデータを消されるまで誰かに残せる、考えを繋げて続けられるツールでもある。もし僕が死んでしまったら家族や友達で読んでほしい笑!全部が僕の遺書です。(サーバーとドメイン費用は僕の口座から引き落とされているのでお金空っぽにしないでね泣)

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